阿弥陀さま、親さま

住職 釋 龍生

 新しい家族である子どもの父親になって、4月で10ヶ月になります。まだ10ヶ月なので、父親のちの字も分かっていない新米父親で、坊守とともに子育てに奮闘の日々です。そんな子どもと過ごす日々の中、この1年に満たない僅かな時間ですが、子どもに教えられることもたくさんあります。
 3ヶ月ぐらい前から、子どもの夜泣きが始まりました。赤ちゃんなので、夜中であろうが関係なく大きな口をあけて、大きな声で遠慮なく泣きます。子育ての主だったことは、坊守にまかせていますので、夜泣きが始まると坊守が子どもをあやします。「照くん、どうしたの、いやな夢を見たのかな、母さんがここにいるから大丈夫だよ。」夜泣きが始まると、ぐっすりと寝込んでいる時であろうが、坊守はすぐに子どものそばに寄り添って、子どもをあやします。日によっては夜中に何回も起きてあやし続けることがあります。私は寺の日々の仕事があるので、夜中は床に就いたまま、坊守が子どもをあやす声や子どもに優しく歌いかける声をかすかに聞いているだけで申し訳ない気持ちでいっぱいになります。そして坊守のその姿や声に、私は子どもが生まれるまでの生活がいかに自分中心の生活であったか、ということを痛感します。
 浄土真宗では、ご本尊の阿弥陀如来さまを「親さま」と呼びます。南無阿弥陀仏というお名号には、「阿弥陀さまにおまかせしますという心( 信心) 」と、「あなたを必ず救うというおはたらき」が、功徳としてこめられています。「無量寿経」に、阿弥陀さまがわたしたち生きとし生けるもの全てを救うと誓われて、完成された願い、四十八願の中心、第十八願に、「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生まれたいと願い、わずか10回でも念仏して、もし生まれることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。云々」とあります。阿弥陀さまの願いには、私たちを救う阿弥陀さまの救いのはたらきだけでなく、阿弥陀さまを信じておまかせする心(信心)までも、阿弥陀さまの側で整えてくださっています。そしてその功徳の全てを南無阿弥陀仏というお念仏( 呼び声)にこめて、私たちの身の上に常に届けてくださっています。宗祖の親鸞聖人は、門弟に宛てたお手紙(御消息 ごしょうそく)の中で、

  信心の定まるとき往生また定まるなり

とお示しになられます。ですから、救われるということは、そのまま阿弥陀さまから信心を二心なくいただくこと、ということになります。私たちは、日常においてどうしても阿弥陀さまの救いへの感謝を忘れたり、そっぽを向いたりしながら生活しています。しかし阿弥陀さまは、背を向けて逃げまどう私たちを片時も忘れず、そのまま抱きかかえてでも必ず救うと、約束をしてくださっています。そして私たちを包み込みながら、私たちの生き様を心配してくださっています。それが「親さま」といわれる由縁です。
 坊守の子どもを思う心、昼夜構わず遠慮なく泣く子どもを優しく、安心を与えながらあやすその姿や声に、家族を守る責任の重さをあらためて教えられるとともに、その姿に重ねながら阿弥陀さまのお慈悲の有り難さを味わうご縁をいただきました。

参考:「浄土三部経」現代語版 本願寺出版社

専教寺ミニ本棚

坊守 佐々木 ひろみ

 本堂に昨年設置した小さな本棚をご存知でしょうか。今回は、この本棚にある本の一部を紹介させていただきます。
「もしも45億年の地球の歴史を1年間に縮めたら・・・1月1日に地球誕生。( 月や陸・海・大気ができて、氷河期などを経て) 大みそか近くになって、ようやく人類登場」思わず「へえ」と言ってしまうこの絵本は、『もしも地球がひとつのリンゴだったら』( 小峰書店) です。想像するのが難しい大きなもの( 歴史や人口や食べ物など、あらゆるもの) を縮めて、身近なものに例えて、見えるようにしています。例えのおもしろさだけでなく、今、目の前のことで一喜一憂している日々がとてもとても小さなものであるということ、でも、歴史上の多くの人のそんな日々が集まって今があるということに改めて気づかされます。
 次に、本願寺絵本シリーズ(本願寺出版社)です。『お釈迦さま』は、お釈迦さまの一生が分かりやすい文と絵で描かれています。『お釈迦さまのものがたりⅠ ~ Ⅲ 』は、命の尊さや大切さ、正しい生き方について、易しい文でありながら深く考えさせられる物語が収められています。
 そして、『ぼくを探しに』( 講談社) を紹介します。自分のかけらを探す「ぼく」。足りないものをうめようと、いろいろな試み、努力、失敗・・・試行錯誤を繰り返します。かけらを見つけて完璧になったように見えても、それでは何かおもしろくない。そしてまた、かけた形で動き出します。簡単な文と簡単な絵で描かれた短い絵本です。きっと、子どもが読むと、親しみやすい絵と話がスッと入ってくると思います。大人が読むと、自然と「ぼく」を自分に置き換えて読み進めるのではないでしょうか。人によって、また同じ人でも読む時期によって、味わい方が変わってくるかもしれません。

 お寺にお参りするお子さんが、絵本をよく手に取って見てくれます。先日お参りされたご家族は、お子さんが手に取った絵本を、お父さんが一緒に読んで会話する姿が見られて、いいなと思いました。ここで紹介させていただいた絵本は、ほんの一部です。絵本は子どもが読むもの、と決めてしまわず、ぜひ手に取って読んでみてください。

永代経法要に寄せて

前坊守 佐々木 京子

 2000年9月、アメリカのサンフランシスコで、浄土真宗北米開教百周年記念法要が勤修されました。
 百数十年前、北米に新天地を求めて日本から移住した人々を待っていたのは、想像とはほど遠い艱難辛苦(かんなんしんく)の生活でした。山林を切り開き、荒野を開墾し、掘っ建て小屋から始まった筆舌に尽くしがたい暮らしの中で、浄土真宗門徒の人々は、「自分が生まれた時から聴いて育った私の宗旨のお説法が聴きたい。先生( 布教使) をアメリカへ派遣していただきたい。」という嘆願書を本山、西本願寺に出したのです。そして、本山から北米へ布教使が派遣されたのが、100年前ということです。
 100前の米国では、キリスト教、イスラム教など、仏教徒にとっては異宗教ばかり。そんな中で、浄土真宗の教えを聴くことを熱望する移住者の待つ北米へ、当時の布教使は、船で何日もかけて海を渡って行きました。この日を待ちわびていた人々は、計り知れない喜びに包まれたことと思います。
 異国で、なつかしい浄土真宗の法話をお聴聞する人々の顔には、苦労のしわが深くきざまれていたことでしょう。しかし表情は法悦にやすらいでいたことでしょう。人々は、阿弥陀如来のみ心を聴き、親鸞聖人の教えにみちびかれて念仏を称えつつ( 浄土真宗の教章)数多の苦難を乗り越えていきました。
 異国でひたすらみ教えを求めた先祖の思いは、2世、3世へと引き継がれました。寺院も建立され、法要、行事が営まれ、人々の心のよりどころとなっています。子、孫、ひ孫の代も先祖の願いに応えて、聞法と仏恩報謝につとめ、お念仏の輪がひろがっていることでしょう。
 永代経法要が近づくと、北米開教の歴史に思いを馳せ、連綿たる尊いご縁に胸が熱くなります。
 当専教寺におきましても、子や孫にみ教えを聴いてほしいと、聞法の道場であるお寺を、ご先祖の方々が代々護ってきてくださいました。おかげさまで、今私たちはみ教えに遇うことができています。ご先祖にお礼申し、このご縁が永代続きますようにと、懇念こめて今年も永代経法要が勤修されます。皆様とごいっしょにお勤めできることを楽しみに、諸準備が進められています。お誘い合わせてご参拝くださり、共にお聴聞いたしましょう。